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『満月をまって』 メアリー・リンレイ作 バーバラ・クーニー絵 掛川恭子やく あすなろ書房 |
いまから100年以上前に実在した、アメリカの山あいに静かにかごを編んで暮らしていた人々の、父から子へ語り継ぐ心の軌跡をうたったみずみずしい物語です。
9歳になって、とうさんは初めてぼくを町へ連れて行ってくれた。父さんたちのつくったりっぱなかごを売って、暮らしに必要なものを買うために。
憧れの町は、色と音に刺激にあふれていて、山がすべての世界だったぼくには、驚きとまぶしさに満ちていた。 何もかも知っている父さんが、淡々と用事をこなしていく中、ぼくは帰ったら母さんになんと教えてあげようかあれこれ考えをめぐらせていた。
突然、後ろで、町の子どもたちが「山ザル」「おんぼろかご」と呼び捨てた。
ぼくをとりまく何もかもが、そのとき突然色と光を失ったかに思えた・・・。
大人になりかけたぼくの、それまでの価値観とプライドを、根底から見つめなおす軌跡を、静かに、温かく、誇り高く見守った、美しく凛とした物語。バーバラ・クーニーさん最後の作品。
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2000年に惜しくもお亡くなりになった、バーバラ・クーニーさんの最後の作品だそうです。 しなやかな強さを秘め、まっすぐ芯の通った作品を多く手がけたアメリカの代表的絵本作家バーバラ・クーニーさんの最後にふさわしい、美しく凛とした作品です。 個人的に私がバーバラ・クーニーさんの邦訳作品の中でいちばん好きなものをあえて選ぶなら、『オーパルひとりぼっち』(ほるぷ出版)と、こちらでご紹介している『わたしは生きてるさくらんぼ―ちいちゃな女の子のうた』(ほるぷ出版)、そしてこの『満月をまって』です。 どれも長く愛され続ける傑作だと思いますが、作品をつらぬく、生きることへの静かな情熱、自分自身の内面への模索、葛藤、そして静かな肯定、自分と自分をとりまく世界との融合が、とてもとても、好きです。美しいイラストから、静かな強い光をたたえた主人公たちのまなざしが、心にまっすぐ届く感じです。
『満月をまって』は、いまから100年以上前に実在した、アメリカの山あいに静かにかごを編んで暮らしていた人々の、父から子へ語り継ぐ心の軌跡をうたったみずみずしい物語です。 テキストはメアリー・リンレイさんという方で、1946年お生まれ、作家であり環境保護活動家だそうです。
いつのころからか、ゆったりと自然につつまれて、ゆっくりと自然と共存していた名前もなき人々は、満月のように丸くて丈夫で美しいかごを編んで暮らし、時折町に売りに行って、必要なものを買って帰ってくるのでした。
満月の明るい夜に、とうさんは町へかごを売りに行くのですが、8歳のぼくはまだ小さいからと一緒に連れて行ってもらえません。 それでぼくは町はどんなところだろうと、想像をめぐらせながら、とうさんのすることをよく見て、木を選ぶ目を、かごを編む手を、じっと観察して覚えていきます。
奥深い自然の中で、待つことにはなれているぼくですが、とうさんがぼくを連れて行ってくれる気になったのは、ぼくが9歳になってからでした。
ぼくはうれしくて、町へ向かう森の道の一つ一つの風景を、あとでかあさんに教えてあげようと思うくらい高揚した気持で歩くのですが、いざ町へ着くと、目新しいさまざまな色とにおいの洪水に圧倒されてしまいます。 既に町を知っているとうさんは、淡々とかごを店に卸し、かあさんに頼まれた食料品を買い集め、ふたたび、もと来たように森へ帰ろうとします。 何もかも初めてづくしの町に、あとで何てかあさんに話そうか、と考えながら広場を歩いているとき、ふいに、町の人の心無い声がぼくととうさんにはなたれました。 町の人はぼくたちをからかって、ぼくたちのつくるかごをおんぼろかご、ぼくたちを山ザル、と揶揄したのです。
とたんに、ぼくの中で、とうさんたちのつくる丈夫で美しいかごや、山での静かな暮らしが、まったく色褪せてつまらないものと化してしまいます・・・。 山へ帰ったぼくはある日・・・。
バーバラ・クーニーさんの描く抑えた色彩の淡々とした自然が美しく、物語に秘められた力強いものをあますところなく感じることができるようです。 特に個人的に好きな場面は、山から帰ってなげやりになったぼくを、かあさんがそっと後ろからつつみこむように立つイラストです。 この二人のまなざしのひたむきさ、ぼくのくちびるのやるせなさ、かあさんのしっかりとむすばれたくちびるの意思の強さはどうでしょう!
それから、藍色のもやの中で、しっかりと立つぼくの姿が小さく描かれた、山のイラスト。 こんな小さな後姿なのに、ぼくの風と共鳴する心や、見開かれた大きな瞳が、見えるような気がするのです。
大人になりかけた9歳のぼくが、初めて自分たちだけの山の世界から外の世界へ出て、いやおうなしに外から自分たちの山の世界を見た(見せ付けられた)こと。 そして自分の中で大きくずれが生じてしまった価値観の相違に苦しむぼくを受け入れ、再び自らの力ではいあがるまでじっと見守る、山の大人たち。
まるでわけへだてなく静かにふりそそぐ月の光のように、やさしさと強さがぼくをとりまいて満ちています。 大人たちの一つ一つの言葉も心に深くしみいります。 読後の風が、新しい意味を持つような、心の透き通る1冊。
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『ちいちゃな女の子のうた "わたしは生きてるさくらんぼ"』ほるぷ出版
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さて、何もかもが新しく生まれかわるような美しい春にぴったりの、バーバラ・クーニーさんの愛らしい祝福の絵本はこちら。
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『ちいちゃな女の子のうた "わたしは生きてるさくらんぼ"』 デルモア・シュワルツ ぶん バーバラ・クーニー え しらいしかずこ やく ほるぷ出版 1981年
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「わたしは生きてるさくらんぼ と ちいちゃな女の子がうたいます. わたしはまいあさあたらしいものになるのよ.」
ちいちゃな女の子の、みずみずしくまっすぐに生きている喜びの歌を、バーバラ・クーニーさんの澄んだ筆で描いた、小さくて大きな絵本。
後ろで束ねた少しワイルドな長い髪、空にひろげた細く長い腕、空をめざした横顔、凛とした、しなやかな強さを秘めた女の子が、いまこのときをしっかりと生きている喜びを、のびやかなおしゃべりできりりと歌い上げます。
ページを開くたび、心の迷いが消えていくような、新しい勇気がわいてくるような、新しい自分に出会えるような、喜ばしく輝かしい絵本。
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少しちいちゃめの版の、とても愛らしい一冊で、なんといってもタイトルがとってもチャーミング。 「ちいちゃな女の子のうた "わたしは生きてるさくらんぼ"」 "I AM CHERRY ALIVE" THE LITTLE GIRL SANG テキストのコピーライトは1958年とあり、『SUMMER KNOWLEDGE : NEW AND SELECTED POEMS 1938-1958 』 ( Doubleday&Company,Inc.,New York ) からのもののようです。 イラストのコピーライトは1979年、Haper&Row,Publishers,Inc.,New York、とあります。
テキストのデルモア・シュワルツさん、という方は1913年生まれのすぐれた評論家、短編作家、そして詩人だそうです。 バーバラ・クーニーさんのしなやかで凛としたイラストが、さらにこののびやかでもぎたての果実のような詩に、豊かな広がりを持たせています。 とくに、ラスト近くの 「わたしは何色・・・」 の、ページは圧巻。一枚一枚、めくる指も息も止まってしまいそうです。
原書を読んだことはありませんが、口ずさみやすく歌うような、小さなおしゃべりのような軽やかな訳文が、物語をきりりとひきしめている感じ。
女の子は10歳前後でしょうか。
自分の中に自我の目覚めをしっかりと感じ、喜び、讃え、自分の足でしっかりと立ち、自分の目でしっかりと前をみつめて、誇り高く歌います。
「わたしは生きてるさくらんぼ」 「わたしはまいあさあたらしいものになるのよ」 ・・・。
ゆるされるものなら、全文書き写したいくらい、全部そっとハンカチにくるんで、宝物箱にしまっておきたいくらい、さくらんぼのように甘い小さな女の子のつぶやきに魅力を感じます。
しかもただ甘いだけでなく、さくらんぼにはしっかりとしたかたい種があるように、甘いやわらかい実で包まれた女の子の中にも、しっかりとしたかたい芯がかくされているのです。
さくらんぼの種を植えればやがて芽が出てくるように、女の子の種も、もうじき芽吹く喜びにみちて、その時を待っているようです。
子どもの頃、将来がまだ遠くにあるような気がして、なりたいものに何でもなれそうな気がした、なりたいものになった自分がきらきら見えるような気すらした、逃げ水のようなあの頃、・・・を、喜ばしく誇らしく、シンプルに素直に、つややかにしなやかに描き出している魅力的な絵本。
今、この絵本のなかで、息をして生きている、主人公の女の子や、この絵本を読んでいる子どもたちが、ちょっぴりうらやましいような、まぶしいような、そんな絵本。何もかもが新しく喜ばしい春にぴったりの絵本。
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『ピーターのとおいみち』 リー・キングマン作 バーバラ・クーニー絵 三木卓訳 講談社 現在品切れ
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初版は1953年とある、時も海も越えて読み継がれるアメリカの名作絵本の邦訳です。表紙イラストと同じ裏表紙は、タイトル部分が原書の『PETER'S LONG WALK』。おそらく原書の雰囲気をそのままに楽しめる装丁が嬉しいですよね。
原書は 『Peter's Long Walk』Bantam Doubleday Dell Books,New York ,1953、とあります。アマゾン洋書では『Peter's Long Walk』・・・在庫切れ。
テキストが少し長めの絵本なの(で読み聞かせするとチトくたびれるかも)ですが、長女、二女(7、5歳)ともにお気に入りの一冊です。
森の奥にお母さんと二人でひっそりと住むピーターは、毎日家の動物たちと元気にあそびますが、お友だちがほしくてしかたがありません。 5歳になったら、村の学校に入れるようになり、お友達が出来る、と、お母さんにさとされて、ひたすら待ちます。 そしてめでたく5歳の誕生日の春、ケーキのろうそくを吹き消すとき、ピーターはいっしょうけんめい、ともだちをくださいと祈ります。 ぜんぶ消えてしまえば、願いがかなうはずだったろうそくの炎は、果たして、一本ゆらゆらと残っていたのでした。 がっかりするピーターに、お母さんは言います。 「ほうっておいたら、うまくいかないっていうだけのことですよ。ねがいごとは、じぶんでかなえるのよ」
それをきいたピーターは、すぐ決心して、翌朝まだはやく、村の学校にむけて誰にもないしょで出発します。 けれどピーターは忘れていたのでした。村はとても遠いのです。
あまりに長い道のりに少し疲れて一休みしていると、ピーターは突然はっとしました。 誰かがピーターを見ています。 そのだれかは、ピーターといっしょなにあそびたいらしいのです。 ピーターはあたりをみまわしますが、だれもいません。 ひとりでとおくまでいこうとしているピーターがいるだけです。 こうらにもぐりこんだかめになったように、さびしいとおもいました。
でもまた学校に向かって、ながいことがんばってあるいたピーターが、疲れて一休みしていると・・・。
やわらかなタッチで丹念に描かれたバーバラ・クーニーさんのイラストは、黄緑、青、レンガ色、黒の4色と、シンプルでどこか古風な雰囲気。静かな山奥の風景とピーターがすがすがしく描かれています。 なぞめいた繰り返しの楽しいリー・キングマンさんのテキストは、美しい詩のようなたとえが用いられ、格調高い昔話のような雰囲気です。 一休みするピーターを、一緒に遊びたそうにどこかから見ている誰かは、ここではヒントなしの正体不明で、読み手をどんどん物語に引き込みます。
そして、村の学校にやっとの思いでたどり着いたピーターを待っていたのは、新しい友達ではなく、古くからのそうじのおじさんでした。 朝がまだ早すぎたのです。そして5歳を迎えた子どもたちが一斉に9月から入学する学校生活の時期にも、5歳なりたてのピーターにはまだ早すぎました。 おじさんはピーターの小さなプライドを大切に守りながら、やさしくピーターに諭します。
ピーターは帰り道、泣きません。つよいこですもの。 でも学校に行きたい一心で、はるばる歩いてきた道のりを、くたくたの心と身体で、とぼとぼひとりきりでまた歩いて帰らねばならないのです。 その帰るみちすがら、一休みしていると・・・。
いくえにも巧みな仕掛けや、小さなどんでん返しが施されていて、読んでいて楽しみの尽きることがありません。 行き道で感じたぞくっとするような、得体の知れない正体が、つぎつぎと明らかになりつつも、まだまだ先が読めない展開など、よく練られた推理小説を読んでいるように爽快です。 しかも、ラストが小粋で、お気に入り!
長くて楽しい物語を読み通したゾ! というはればれとしてさわやかな気持ちになる読み物です。。 こんな選りすぐりのとびきりの絵本が、品切れ状態だなんてなんとも残念無念。 ぜひ重版・再版をお願いいたします。
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『北の魔女ロウヒ』 トニ・デ・ゲレツ原文 バーバラ・クーニー絵 さくまゆみこ編訳 あすなろ書房
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フィンランドの民族叙事詩「カレワラ」を下敷きに描かれた、美しく厳しい北の国の自然と、大らかで愛すべき登場人物たちのおりなす、壮大な物語。
気まぐれな魔女ロウヒは、ワイナモイネンのカンテレの調べを聴くうちに、突然ワシに姿を変えて、太陽と月をわしづかみにし、あかがね山の奥深く隠してしまいました。 たちまち世界中が、闇と寒さにふるえます。 ワイナモイネンは鍛冶屋に頼んで、金から月を、銀から太陽をこしらえますが・・・。
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原書は、『LOUHI,WITCH OF NORTH FARM』、1986、とあります。
遠い北の国に住むロウヒは魔女。 魔女だから、鳥になって空をとぶことも、魚になって水の中を泳ぐことも、何だってできるのですが、ありきたりのことではつまりません。 雪山にぴったりの方法、つまりスキーで、滑り降りることにしたのですが、ロウヒは魔女。いつのまにか空を飛んでいました。
すると、どこからかとても美しい楽の調べが聞こえてきます。 「あれはきっとワイナモイネンだね。あんな音色は、ほかの者には出せっこないもの」
やっぱり、そうです。 ワイナモイネンがうっとりと聞き入る動物たちに囲まれて、石の上でカンテレを弾いていたのでした。 いいえ、動物たちだけでなく、魚も草も、木々のこずえにおりてきた月も太陽も、うっとりと聞きほれているようです。
それを見て、突然、いたずら心をおこしたロウヒは、たけだけしいワシに姿を変えると、月と太陽をわしづかみにして、北の空に飛び去って行きました・・・。
そして、世界中に暗闇が訪れました。
ワイナモイネンは鍛冶屋に頼んで、金から月を、銀から太陽を作ってもらいますが・・・。
古代神話や民族抒情詩、などというと、個人的にとっつきにくくて難しい、というイメージがつい伴ってしまうのですが、『北の魔女ロウヒ』は、とても読みやすいと思います。 漢字混じり文ではありますが、ルビがふってあり、字のフォントも大きく、短く簡潔な文章で、スケールの大きな物語を、ぐいぐい力強く導いてくれる感じです。
訳者のさくまゆみこさんが、原著以外に原点「カレワラ」を参考に、クーニーさんの絵の流れに沿って再話してくださったそうですので、その訳文の力に負うところが大きいのかもしれません。(もともと原点「カレワラ」の物語と『北の魔女ロウヒ』は細かな部分が異なるところもあるようです)
そのクーニーさんの絵がこれまた美しく物語に映えて、ほれぼれするほどです。 バーバラ・クーニーさんの描く針葉樹たちは、ひとめでクーニーさんの木だ、とわかるほどにどこかとても個性的で、美しいまとまりと透明感を感じます。表紙の銀世界など吸い込まれてしまいそうに魅力的。
クーニーさんの描くおばあちゃんたちも、表情豊かで一本まっすぐ芯が通っていて、個人的にとても好きなのですが、『北の魔女ロウヒ』のロウヒも、これまたとても好みの「おばあちゃん」に描かれています。 本来は邪悪な魔女だそうですが、気まぐれでわがままでいたずらで、気が強いわりにいざとなると気が小さくて、どこか憎めないあっけらかんとした魔女に描かれているように思えて、このロウヒの人間くささに、とても魅力を感じます。
そして、古代から伝わる物語ならではの、月や星をかくしたり、金や銀でそれらをつくったり、魔女がワシやタカなどに変身したりするディテールの大らかさも爽快です。
民族で代々子孫へと語り継がれ、これからも語り継いでゆく大いなる物語を、クーニーさんのしみじみとした美しい絵で読めるなんて、うらやましいような幸せですよね。
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